汎米保健機関(PAHO)が40年にわたり運用してきた健康科学情報の知識体系「DeCS」。一見、製造業とは無関係に思えるこの取り組みは、技術の伝承や情報資産の活用という、我々が直面する普遍的な課題に対して、重要な示唆を与えてくれます。
はじめに:分野を超えた知識管理の取り組み
先日、汎米保健機関(PAHO)と世界保健機関(WHO)が、健康科学分野の情報を体系的に整理するための語彙集「DeCS(Health Sciences Descriptors)」の40周年を記念するイベントを行いました。これは、膨大かつ複雑化する医療・健康科学分野の論文や技術情報を、研究者や医療従事者が効率的に検索・活用できるようにするための、いわば「知のインフラ」です。40年という長きにわたり、この知識基盤が維持・発展してきたという事実は、分野を問わず、組織的な知識管理の重要性を示唆しています。本稿では、このDeCSの取り組みを参考に、日本の製造業における技術情報やノウハウの管理について考察します。
「共通言語」を持つことの価値
DeCSの最も基本的な機能は、統制語彙集(シソーラス)として、用語の標準化を行うことです。例えば、ある疾患や治療法について、同義語や関連語を整理し、階層構造で体系化することで、誰が検索しても同じ概念にたどり着けるようにしています。これにより、情報の曖昧さがなくなり、必要な知見へのアクセスが格段に向上します。
この考え方は、製造業の現場にそのまま当てはめることができます。例えば、ある部品の不具合現象について、A工場では「カジリ」、B工場では「ムシレ」、設計部門では「凝着摩耗」と、異なる呼称が使われているケースは少なくありません。これでは、過去の類似トラブルを全社的に検索し、対策を水平展開することは困難です。部品名、工程名、設備名、作業標準の用語などを全社で統一し、体系化することは、組織の知的資産を一元管理し、有効活用するための第一歩と言えるでしょう。特にグローバルに拠点が広がる現代において、この「共通言語」の構築は、コミュニケーションロスを防ぎ、品質を安定させる上でも極めて重要です。地道な取り組みですが、DeCSが40年間継続されてきたことこそが、その価値を物語っています。
暗黙知を形式知へ:検索可能な知識基盤の構築
DeCSは、単なる用語集にとどまらず、知識を構造化するための枠組みを提供しています。これにより、個々の情報がバラバラに存在するのではなく、互いに関連付けられた「知識ネットワーク」として機能します。例えば、ある技術情報がどの製品の、どの工程の、どの設備に関連するものなのかが明確に紐付けられていれば、問題発生時に根本原因を特定したり、過去の成功事例を参考にしたりすることが容易になります。
日本の製造業は、長らく熟練技術者の経験や勘といった「暗黙知」に支えられてきました。しかし、世代交代が進む中で、これらの貴重なノウハウをいかにして「形式知」に変換し、組織として継承していくかが大きな課題となっています。過去のトラブル報告書、技術レポート、設計変更の議事録などを、ただ保管するだけでなく、後から誰もが容易に検索・参照できる形で体系的に整理すること。それは、ベテランの頭の中にあった知恵を、組織全体の資産へと昇華させるプロセスに他なりません。この知識基盤は、若手技術者の教育や、新たな製品開発におけるヒントの源泉ともなり得ます。
継続こそが力:知識は「育てる」もの
DeCSが40年間も活用され続けてきた背景には、時代の変化や技術の進歩に合わせて、語彙や体系を絶えず更新し続けてきた地道な努力があります。知識管理システムは、一度導入して終わりではありません。新しい技術、新しい材料、新しい製造方法が生まれれば、それに合わせて知識体系も更新し、陳腐化を防ぐ必要があります。この「メンテナンス」を怠れば、せっかくのシステムも次第に使われなくなり、情報のサイロ化が再び進行してしまいます。知識基盤は、一過性のプロジェクトとしてではなく、組織文化に根付いた継続的な活動として捉える視点が不可欠です。専門の担当者を置く、あるいは各部門で定期的に見直しを行うといった運用ルールを定めることが、生きた知識基盤を維持する鍵となります。
日本の製造業への示唆
医療分野におけるDeCSの40年の歩みは、日本の製造業が自社の知的資産と向き合う上で、以下の実務的な示唆を与えてくれます。
1. 技術用語の標準化から始める:
まず着手すべきは、社内で使われている技術用語や管理用語の棚卸しと標準化です。全社共通の「用語辞書」を作成することは、部門や拠点を越えた知識共有の基盤となります。
2. 長期的な視点で情報基盤を構築・維持する:
技術情報の体系化は、短期的な成果を求めるものではありません。組織の競争力の源泉となる知的インフラとして、長期的な視点で投資し、継続的に維持・更新していく体制を構築することが重要です。
3. 「検索できる」ことの価値を再認識する:
情報は、蓄積するだけでは意味を成しません。必要な時に、誰もが迅速かつ的確に過去の事例やノウハウを探し出せることこそが価値を生みます。過去の失敗と成功の記録は、未来の品質問題を防ぎ、開発を加速させるための最も貴重な教科書です。
4. 異分野のベストプラクティスに学ぶ:
今回取り上げた医療分野のように、一見無関係に見える分野の先進的な取り組みの中に、自社の課題を解決するヒントが隠されていることがあります。広い視野を持ち、他分野の知識管理手法から学ぶ姿勢が、これからの製造業には求められるでしょう。


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