個別化医療の最前線である細胞・遺伝子治療(CGT)薬の製造現場では、紙ベースの管理からの脱却と、拡張性のあるデジタル基盤の構築が急務となっています。この先進的な取り組みは、多品種少量生産や厳格な品質管理が求められる日本の製造業全体にとって、重要な示唆を与えてくれます。
CGT製造の特殊性とデジタル化の必然性
細胞・遺伝子治療(CGT)は、患者様自身の細胞や遺伝子を用いて作られる、まさに「オーダーメイド」の医薬品です。一人ひとりの患者様が一個のロットとなるため、その製造プロセスは従来の大量生産型の医薬品とは根本的に異なります。最大の課題は、患者様から採取した細胞が、複雑な製造工程を経て、間違いなく同じ患者様へ戻されることを保証する「Chain of Identity(CoI:個体識別情報の一貫性)」の担保です。
これまで多くの製造現場では、製造指図や品質記録を紙の帳票(バッチレコード)で管理してきました。しかし、CGTのような究極の個別生産において、紙ベースの運用は限界に達しています。手作業による記録はヒューマンエラーを誘発しやすく、膨大な記録の照合や追跡に多大な工数を要します。また、将来的な生産量の増加(スケールアウト)に対応することも困難であり、デジタル化への移行はもはや選択肢ではなく、必然と言える状況です。
デジタルワークフローが実現するCoIとスケーラビリティ
CGT製造におけるデジタル化の核心は、単なるペーパーレス化にとどまりません。それは、製造実行システム(MES)などを活用した、堅牢なデジタルワークフローの構築にあります。例えば、原材料や細胞検体にバーコードやRFIDを付与し、各工程で作業者がスキャンすることで、取り違えなどの逸脱をシステムがリアルタイムに検知・防止します。作業手順は電子的に表示され、実施された作業や測定値は自動的に記録されます。
こうした仕組みは、CoIを確実なものにするだけでなく、データの完全性(データインテグリティ)を保証します。誰が、いつ、何を実施したかという記録(監査証跡)が改ざん不可能な形で保存されるため、品質保証のレベルが飛躍的に向上します。さらに、プロセスが標準化・デジタル化されることで、新たな製造ラインの立ち上げや生産品目の追加が容易になり、事業の成長に追随できる拡張性(スケーラビリティ)を確保することにも繋がります。
日本の製造現場への応用
CGT製造は特殊な分野に見えるかもしれませんが、そこで起きている課題は、日本の多くの製造業が直面しているものと共通しています。例えば、多品種少量生産へのシフト、顧客要求の高度化に伴うトレーサビリティの強化、熟練作業者の経験への依存からの脱却、そして品質記録の信頼性向上などです。CGTで求められる厳格な個体管理や電子記録の仕組みは、医療機器や半導体、あるいは安全性が重視される食品製造など、幅広い分野で応用できる考え方です。
いきなり大規模なシステムを導入することは難しいかもしれませんが、まずは特定の工程の製造記録や検査記録をタブレットで入力する仕組みに変えるなど、身近な「紙」の置き換えから始めることが有効です。重要なのは、将来の拡張性を見据え、データが分断されず、一元的に管理・活用できるようなデジタル基盤を意識して設計することです。
日本の製造業への示唆
今回のテーマから、日本の製造業が学ぶべき実務的な示唆を以下に整理します。
1. トレーサビリティの再定義: CGTにおけるCoI管理は、トレーサビリティの究極の形と言えます。自社の製品において、ロット単位の追跡で十分なのか、あるいは個品単位での厳密な履歴管理が将来的に価値を生むのか、事業戦略の観点からトレーサビリティのレベルを再検討する良い機会です。
2. スケールアップを前提としたシステム設計: 将来の増産や工場の新設、マスカスタマイゼーションへの対応などを視野に入れ、場当たり的な部分最適化ではなく、拡張性・柔軟性の高いデジタル基盤を構想することが重要です。標準化されたワークフローは、拠点間の品質のばらつきを抑え、迅速な立ち上げを可能にします。
3. 「データインテグリティ」の意識向上: 記録の正確性や完全性を担保するデータインテグリティは、規制産業だけの概念ではありません。正確なデータは、品質改善や生産性向上のための貴重な資産となります。紙からデジタルへの移行は、この資産の質を高める絶好の機会と捉えるべきです。
4. スモールスタートによるデジタル化の推進: 全社的なDXはハードルが高いものの、特定のラインや工程でのペーパーレス化は、現場の抵抗も少なく着手しやすい施策です。そこで得られた成功体験と効果の可視化が、より大きな変革への推進力となります。


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