2019年7月に欧州連合(EU)で施行された「SPC製造免除(SPC Manufacturing Waiver)」は、医薬品の特許保護に関する重要な制度変更です。本稿では、この制度の概要を解説し、日本の医薬品・原薬メーカーをはじめとする製造業の実務にどのような影響を与えうるのかを考察します。
はじめに:欧州で変わる医薬品製造のルール
グローバルに事業を展開する製造業にとって、各国の法規制や知的財産制度の動向を注視することは、事業戦略を立てる上で不可欠です。特に医薬品業界においては、特許制度が事業の根幹を揺るがす重要な要素となります。2019年7月1日にEUで施行された「SPC製造免除」は、EU域内のジェネリック医薬品メーカーの競争力強化を目的とした制度であり、世界の医薬品サプライチェーンに影響を与える可能性を秘めています。
SPC(補充的保護証明書)制度の基本
まず、本制度の根幹であるSPC(Supplementary Protection Certificate:補充的保護証明書)について理解しておく必要があります。医薬品は、特許出願から、長い臨床試験を経て製造販売承認を得るまでに多くの歳月を要します。その結果、製薬会社が特許権によって製品を独占的に販売できる期間は、実質的に短くなってしまいます。この失われた期間を補う目的で、特許期間を最大5年間延長できるのがSPC制度です。これは、日本の「特許権の存続期間の延長登録制度」に相当するものとご理解いただくと分かりやすいでしょう。
なぜ「製造免除(Waiver)」が必要だったのか?
従来のSPC制度下では、延長された特許期間中、EU域内のジェネリック医薬品メーカーは、たとえ輸出目的であっても、その医薬品を製造すること自体が禁じられていました。一方で、インドや中国など、EU域外のメーカーはSPC制度に縛られないため、同じ医薬品を自由に製造し、EUのSPCが有効でない第三国へ輸出することができました。さらに、EUのSPC期間満了と同時にEU市場へ製品を投入するための準備も先行して進めることができました。
この状況は、EU域内のジェネリック医薬品メーカーにとって著しく不利な競争条件を生み出していました。EUに製造拠点を置くことが競争上の足かせとなり、製造拠点の域外流出や雇用の喪失につながるという懸念が高まったことが、今回の「製造免除」導入の背景にあります。
SPC製造免除の具体的な内容
SPC製造免除は、特定の条件下において、SPCの保護期間中であってもジェネリック医薬品等の製造を認めるものです。具体的には、以下の2つのケースが許可されます。
1. 輸出目的の製造
SPCで保護されている医薬品を、EU域外(SPCが有効でない国)へ輸出する目的で、EU域内で製造・保管することが認められます。これにより、EU域内のメーカーも、EU域外のメーカーと同様に、グローバル市場で競争することが可能になります。
2. 備蓄目的の製造
SPC期間が満了した初日からEU市場で販売を開始できるよう(いわゆる「Day-1 Launch」)、SPC期間満了前の最後の6ヶ月間に限り、EU市場への投入を目的とした製造・保管が認められます。これにより、SPC期間満了後、より迅速に安価なジェネリック医薬品を患者に届けられるようになります。
日本の製造業の視点からの考察
この制度変更は、日本の製造業、特に医薬品原薬の製造や医薬品受託製造(CDMO)を手掛ける企業にとって、無視できない動きです。EU域内に製造拠点を持つ日本企業にとっては、この免除規定を活用し、EUのジェネリックメーカーから輸出用製品や「Day-1 Launch」用製品の製造を受託する新たな事業機会が生まれる可能性があります。
一方で、原薬メーカーやジェネリックメーカーにとっては、競争環境の変化を意味します。これまでEU域外市場で競合してきたEUメーカーが、この制度によって価格競争力や供給能力を高め、輸出を強化してくる可能性が考えられます。自社がターゲットとする市場において、EUメーカーの動向をこれまで以上に注視する必要があるでしょう。また、知的財産部門と製造・販売部門が連携し、各国の制度変更が自社のサプライチェーンや市場戦略に与える影響を多角的に分析する体制が、ますます重要になります。
日本の製造業への示唆
今回のEUにおけるSPC製造免除の導入は、日本の製造業に以下の実務的な示唆を与えます。
1. グローバルな規制動向の常時監視
知的財産制度は、各国の産業政策と密接に結びついています。一見、自社とは直接関係ないように見える海外の法改正が、巡り巡って自社の競争環境やサプライチェーンに影響を及ぼすことがあります。特にグローバルに事業展開する企業は、主要国の規制動向を継続的に把握する仕組みを持つことが不可欠です。
2. 知的財産と製造戦略の連携
知的財産は、法務部門だけの問題ではありません。特許期間やその例外規定が、いつ、どこで、何を製造できるかを直接左右します。本件は、知財情報が製造拠点の選定や生産計画、販売戦略と不可分であることを示す好例です。部門横断で情報を共有し、戦略を練る重要性が浮き彫りになります。
3. 競争環境の変化への柔軟な対応
今回の制度変更は、EUの製造業を保護・育成する狙いがあります。これは、EUメーカーの競争力が強化されることを意味します。この変化を脅威と捉えるだけでなく、新たな提携や事業機会の可能性を探るなど、自社の強みを活かした柔軟な戦略見直しが求められます。


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