工場の操業停止に直結するサイバー攻撃のリスクは、もはや対岸の火事ではありません。本記事では、単なる防御策に留まらない「サイバーレジリエンス」と、それを支える組織全体の強靭性について、日本の製造業の実務者の視点から解説します。
はじめに:ITとOTが融合する工場の新たなリスク
近年、国内外の製造業において、ランサムウェアなどのサイバー攻撃により工場の生産ラインが停止に追い込まれる事例が後を絶ちません。かつてサイバーセキュリティは、主にIT部門が管理する情報システムの問題と捉えられてきました。しかし、スマートファクトリー化が進み、工場の生産設備を制御するOT(Operational Technology)システムがインターネットなどのITネットワークと接続されるようになった今、その脅威は生産現場に直接的な影響を及ぼすものとなっています。
これまで閉じられた環境で安定稼働を前提としてきたOTシステムは、ITシステムに比べてセキュリティ対策が十分でないケースも少なくありません。このITとOTの融合領域が、攻撃者にとっての新たな標的となっているのです。生産停止は、自社の損失に留まらず、サプライチェーン全体に深刻な影響を与えかねない経営上の重要課題であると認識する必要があります。
「防御」から「レジリエンス」への転換
サイバー攻撃の手口は日々巧妙化しており、侵入を100%防ぎきることは極めて困難です。そこで重要になるのが、「サイバーレジリエンス」という考え方です。レジリエンスとは「回復力」や「強靭性」を意味する言葉で、サイバーセキュリティの文脈では、「攻撃を受けることを前提として、いかに迅速に事業を継続し、被害から復旧するか」という視点を重視します。
これは、完璧な防御壁を築くこと(Prevention)だけに注力するのではなく、インシデントの早期検知(Detection)、被害拡大の防止と影響の分析(Response)、そして迅速な復旧(Recovery)という一連のサイクルを効果的に回す能力を指します。品質管理における「不良品を作らない(源流管理)」努力と同時に「万が一の流出を防ぐ(流出防止)」仕組みを構築する考え方と通じるものがあると言えるでしょう。
組織的レジリエンス:全社で取り組むべき課題
サイバーレジリエンスの実現は、IT部門や情報システム部門だけの努力では不可能です。経営層から生産現場の担当者まで、全社一丸となって取り組む「組織的レジリエンス」が求められます。
例えば、経営層はサイバーセキュリティをコストではなく、事業継続のための重要な投資と位置づけ、リーダーシップを発揮する必要があります。生産技術部門や工場現場は、OTシステムのセキュリティリスクを正しく理解し、IT部門と密に連携して対策を講じなければなりません。従業員一人ひとりが、不審なメールを開かない、許可されていないUSBメモリを生産設備に接続しないといった、日々の業務における基本的なセキュリティ意識を持つことも不可欠です。近年ではAIを活用した巧妙なフィッシング詐欺なども増えており、継続的な教育と訓練が重要性を増しています。
事業継続計画(BCP)にサイバー攻撃シナリオを組み込む
多くの製造業では、地震や水害といった自然災害を想定した事業継続計画(BCP)を策定しています。しかし、その中に「サイバー攻撃による長期的な生産停止」というシナリオが具体的に盛り込まれているでしょうか。
システムの復旧手順は明確になっているか、データのバックアップは適切に(例えばオフラインで)保管されているか、代替生産の可能性は検討されているか、そしてサプライヤーや顧客への連絡体制は整っているか。こうした点を具体的に想定し、机上訓練や実地訓練を定期的に行うことで、いざという時の対応能力を高めることができます。自然災害への備えと同様に、サイバーインシデントへの備えも、事業を継続する上で不可欠な要素となっているのです。
日本の製造業への示唆
本稿で解説した「サイバーレジリエンス」と「組織的レジリエンス」は、今日の日本の製造業にとって避けては通れないテーマです。最後に、実務における要点を整理します。
- 経営課題としての認識:サイバーセキュリティは技術的な問題ではなく、事業継続を左右する経営課題です。経営層が主導し、必要なリソース(人材、予算)を配分することが全ての出発点となります。
- ITとOTの連携強化:情報システム部門と生産・製造部門の間に存在する壁を取り払い、両者が協力して工場全体のセキュリティを設計・運用する体制を構築することが急務です。
- BCPの現実的な見直し:自然災害だけでなく、ランサムウェア攻撃によるシステムダウンを具体的なシナリオとしてBCPに追加し、復旧手順の確認や訓練を定期的に実施することが求められます。
- サプライチェーン全体での視点:自社の対策だけでなく、部品や原材料を供給する取引先を含めたサプライチェーン全体でのセキュリティレベルの底上げが重要になります。特にセキュリティ対策が手薄になりがちな中小の取引先への支援や連携も視野に入れるべきでしょう。
サイバー攻撃という見えにくい脅威に対し、組織全体でしなやかに対応できる強靭性を構築すること。それが、不確実な時代において日本の製造業が競争力を維持し、信頼される製品を社会に供給し続けるための礎となるはずです。


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