ある音響技術者の働き方が、現代の製造業における人材育成のヒントを与えてくれます。専門性とマネジメント能力を兼ね備えることの重要性と、その育成方法について、現場の実務に即して考察します。
はじめに:異業種に見る「越境する専門家」の価値
米国の音響技術者であるマット・ヴォーゲル氏は、音響ミキシングという高度な専門技術を持ちながら、同時に映像制作全体の進行を管理するプロダクションマネジメントの知見も併せ持っています。この二つの能力の組み合わせにより、彼は多様な場所や文化、異なる専門性を持つチームの中にスムーズに溶け込み、国境を越えて活躍の場を広げているといいます。この事例は、一見すると製造業とは無関係に見えるかもしれません。しかし、彼の働き方は、現代の日本の製造業が直面する課題を乗り越えるための、人材育成や組織運営における重要な示唆を含んでいます。
製造業における「技術」と「管理」の壁
日本の製造業は、長らく専門性を深く追求する「I型人材」の育成を得意としてきました。設計、加工、組立、品質保証といった各分野の技術者が、それぞれの持ち場で技術を磨き、高い品質と生産性を実現してきたことは紛れもない事実です。一方で、工場長や現場リーダーといった管理職は、生産計画や人員配置、コスト管理といったマネジメント業務に軸足を移し、個別の要素技術の深化からは徐々に距離が生まれる傾向がありました。この役割分担は、安定した環境下では非常に効率的に機能します。しかし、市場の要求が多様化し、サプライチェーンが複雑化し、デジタル技術の導入が不可欠となった現代において、この「技術」と「管理」の間に存在する見えない壁が、時に迅速な問題解決や革新を阻む要因となり得ます。
専門性と管理能力を併せ持つ人材の重要性
ヴォーゲル氏の事例に立ち返ると、彼の価値は「技術」と「制作管理」という二つの異なる言語を話し、両者の橋渡しができる点にあります。これを製造業の現場に置き換えてみると、その重要性がより明確になります。
例えば、ある製品に品質問題が発生したとします。その原因は、材料の特性、加工条件、設計思想、あるいはサプライヤーの工程など、複数の要因が複雑に絡み合っているかもしれません。この時、特定の技術領域にしか通じていない技術者や、現場の技術的な背景を深く理解していない管理者だけでは、問題の全体像を捉え、本質的な対策を打つことが困難な場合があります。技術的な知見を持ちながら、コストや納期、他部署との連携といった管理的な視点からも物事を俯瞰できる人材がいれば、より効果的で迅速な意思決定が可能になるでしょう。
また、スマートファクトリー化やDX(デジタルトランスフォーメーション)の推進といった部門横断的なプロジェクトにおいても同様です。生産技術、情報システム、品質管理、経営企画など、異なる背景を持つメンバー間の「共通言語」となり、プロジェクトを円滑に推進できるのは、まさに専門性と管理能力を兼ね備えた人材に他なりません。
「越境する技術者」をいかに育成するか
このような人材は、一朝一夕に育つものではありません。企業として、意図的に育成の機会を設ける必要があります。例えば、若手・中堅の技術者に、一定期間、生産管理や品質保証、あるいは購買といった関連部署での実務を経験させるジョブローテーションは有効な手段です。また、特定の課題解決を目指す部門横断プロジェクトを立ち上げ、その中核メンバーとしてアサインすることも、視野を広げ、管理能力を養う上で大きな効果が期待できます。
重要なのは、単に専門分野を深掘りさせるだけでなく、その専門性を軸に、関連する領域へと意識的に越境させる経験を積ませることです。技術者が管理の言葉を、管理者が技術の言葉を理解し、尊重し合う。そうした組織文化を醸成することが、変化に強い現場づくりの第一歩となります。
日本の製造業への示唆
今回の異業種の事例から、日本の製造業が学ぶべき点を以下に整理します。
1. 専門性の深化と拡張の両立
一つの技術を深く極める「深掘り」に加え、その周辺領域や管理・経営といった「横への広がり」を意識した人材育成が不可欠です。いわゆる「T型人材」の育成を、絵に描いた餅で終わらせず、具体的なキャリアパスとして設計することが求められます。
2. 組織の壁を越える人材の戦略的育成
技術と管理、あるいは部門間の壁を越えて活躍できる人材は、偶然生まれるのを待つのではなく、計画的な人事配置やプロジェクトへのアサインを通じて、企業が戦略的に育成していくべき重要な資産です。
3. 現場起点の多角的視点による意思決定
現場の技術を深く理解した管理職と、工場全体の運営やビジネスの視点を持った技術者が増えることで、組織全体の意思決定の質とスピードは向上します。この連携こそが、先の読めない時代を乗り越えるための競争力の源泉となると考えられます。


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