かつて製造業は、高い賃金を背景に、同業他社との間で人材獲得競争を行ってきました。しかし、今やその相手は他業種にも広がり、人材確保は喫緊の経営課題となっています。米国の穀物メジャーADM社の取り組みから、これからの製造現場に求められる「従業員体験の向上」について考察します。
もはや競合は製造業だけではない
「製造業は、かつては他の製造業者と人材を奪い合っていた。このセクターは、安定した時間給を得るための代表的な働き口だった」— 元記事の一節は、多くの製造業関係者が実感してきた過去の姿を的確に表現しています。しかし、労働人口が減少し、働き方の価値観が多様化する現代において、この常識はもはや通用しません。サービス業、IT産業、物流業など、あらゆる産業が同じ人材プールを奪い合う時代となり、製造業はかつてない厳しい採用環境に置かれています。
特に、デジタルネイティブ世代の若手人材にとって、製造現場の「働きがい」や「働きやすさ」は、給与や福利厚生と同じくらい重要な選択基準です。旧来の働き方を前提としたままでは、優秀な人材を惹きつけ、定着させることはますます困難になるでしょう。こうした課題認識のもと、米国の穀物メジャーであるADM(Archer-Daniels-Midland)社は、現場で働く従業員の体験を根本から見直す「近代化」に着手しました。
ADM社が描く「現場体験の設計図」
ADM社の取り組みの中心にあるのは、テクノロジーを活用して現場従業員の「働きがい」と「働きやすさ」を高めるという思想です。これは単なるツールの導入に留まらず、コミュニケーション、キャリア形成、日常業務のあらゆる側面を見直す、包括的なアプローチです。
具体的な取り組みとして、以下のような点が挙げられます。
まず、情報伝達とコミュニケーションのデジタル化です。従来、工場での情報共有は朝礼や掲示板が中心でしたが、同社ではモバイルアプリなどを活用し、経営層からのメッセージや安全に関する重要事項、生産計画の変更などをリアルタイムで全従業員に届ける仕組みを構築しました。これにより、従業員は会社の方向性をより身近に感じ、疎外感を抱くことなく業務に集中できます。また、現場からの意見や改善提案を吸い上げる双方向の仕組みも重視されています。
次に、キャリアパスの透明化です。現場の作業者が、将来どのようなスキルを身につければ昇進・昇格できるのか、どのようなキャリアを歩めるのかを明確に示しています。個々のスキル習熟度をデータで可視化し、必要な研修や教育を会社が体系的に提供することで、従業員は自身の成長を実感し、日々の業務に対するモチベーションを維持しやすくなります。これは、日本企業が得意としてきたOJT(On-the-Job Training)を、より計画的かつ公平な形で発展させたものと捉えることができます。
さらに、日常業務の負担軽減も重要な要素です。手書きの報告書や紙ベースの作業指示書をタブレットに置き換えたり、単純な繰り返し作業を自動化したりすることで、従業員はより付加価値の高い、本来人間がやるべき「考える」業務に時間を使えるようになります。これは生産性向上に直結するだけでなく、「やらされ仕事」から解放されることで、従業員の精神的な満足度を高める効果も期待できます。
日本の製造業への示唆
ADM社の事例は、日本の製造業にとっても多くの示唆に富んでいます。人手不足が深刻化する中で、私たちが取り組むべき課題を整理してみましょう。
1. 人材戦略の再定義:競合は全産業へ
まず、人材獲得の競合相手は同業他社だけではない、という認識を経営層から現場リーダーまで共有することが不可欠です。その上で、自社の職場が他産業と比較して、どのような魅力(働きがい、成長機会、職場環境)を提供できるのかを客観的に分析し、戦略的に強化していく必要があります。
2. テクノロジー投資の目的の転換
スマート工場化やDXというと、とかく生産性や効率ばかりが注目されがちです。しかし今後は、「従業員体験をいかに向上させるか」という視点を、テクノロジー投資の重要な判断基準に加えるべきでしょう。従業員が使いやすいと感じるツール、コミュニケーションを円滑にする仕組み、成長を支援するシステムへの投資は、離職率の低下とエンゲージメントの向上を通じて、長期的には生産性を上回るリターンをもたらす可能性があります。
3. 「暗黙知」から「形式知」への転換とキャリア支援
日本の製造現場の強みであるベテランの「暗黙知」や「職人技」は、継承が難しいという課題を抱えています。スキルやキャリアパスをデジタルツールで可視化・体系化することは、若手従業員に明確な成長目標を与えるだけでなく、技能伝承を円滑に進める上でも極めて有効です。個人の頑張りや意欲だけに頼るのではなく、会社として成長の道筋を示す責務があると言えるでしょう。
4. 経営層からの積極的な発信
現場の従業員は、日々の業務に追われる中で、会社の将来や経営層の考えを感じ取る機会が少ないものです。ADM社の事例のように、テクノロジーを活用してでも、経営層が自らの言葉でビジョンを語り、現場の重要性を伝え続けることが、従業員の帰属意識や一体感を醸成する上で非常に重要です。それは、単なる精神論ではなく、優秀な人材を惹きつけ、つなぎとめるための具体的な経営戦略の一環なのです。


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