英国の水素関連技術企業ITM Power社は、期待された電解槽の商業生産への移行で手痛い失敗を経験しました。しかし同社はその後、製品ラインナップの合理化という基本に立ち返ることで、立て直しを図っています。この事例は、新技術の量産化を目指す日本の製造業にとっても、多くの実務的な教訓を含んでいます。
背景:新技術の「量産化の壁」という現実
英国のITM Power社は、グリーン水素を製造するためのPEM(固体高分子形)電解槽技術で注目される企業です。しかし、同社は研究開発段階から商業生産、すなわち量産体制へと移行する過程で、深刻な問題に直面しました。元記事では、この状況を「botched initial transition to commercial production(商業生産への初期移行の失敗)」と表現しており、計画通りに生産が進まなかったことがうかがえます。これは、日本の製造業でもしばしば見られる「量産化の壁」や「死の谷」と呼ばれる現象に他なりません。試作品や小ロット生産では問題なくとも、いざ量産となると品質が安定しない、コストが想定を大幅に上回る、納期が守れない、といった課題が噴出するケースは後を絶ちません。
立て直しの処方箋:製品ラインナップの合理化と標準化
この困難な状況に対し、同社の経営陣が下した決断は、製品戦略の抜本的な見直しでした。具体的には、「electrolyser offerings(電解槽の提供製品)」を「streamlined(合理化)」し、「simplifying the order(注文を簡素化)」したと報じられています。これは、顧客の要求に応じて多種多様な仕様の製品を個別開発・生産する、いわゆる一品一様の受注生産から、製品の仕様を標準化・モジュール化し、提供する製品の種類を絞り込む戦略への転換を意味すると考えられます。新技術を市場に投入する初期段階では、幅広い顧客ニーズに応えようとして製品ラインナップが複雑化しがちです。しかし、それが結果として設計、購買、製造、品質管理の全部門に過剰な負荷をかけ、生産体制そのものを疲弊させてしまうことは珍しくありません。ITM Power社は、この複雑性の罠から脱却するために、製品ポートフォリオを意図的に絞り込み、生産効率と品質安定を優先する道を選んだのです。
製造現場の視点から見る戦略転換の意味
製品ラインナップの合理化と標準化は、製造現場に多大な好影響をもたらします。まず、製品の種類が絞られることで、使用する部品の共通化が進みます。これにより、購買部門はボリュームディスカウントによるコスト削減や、サプライヤー管理の効率化を実現できます。また、在庫管理も簡素化され、キャッシュフローの改善にも繋がります。製造ラインにおいては、段取り替えの回数が減少し、設備の稼働率が向上します。作業者は特定の製品の組み立てに習熟しやすくなり、作業ミスや品質のばらつきを抑えることができます。結果として、製品一つあたりの生産コスト(ユニットコスト)は下がり、品質(Q)、コスト(C)、納期(D)のすべてにおいて競争力が高まります。この戦略は、単なるコスト削減策ではなく、持続可能な生産体制を再構築するための根幹的な取り組みと言えるでしょう。
日本の製造業への示唆
今回のITM Power社の事例は、特に新しい技術や製品の事業化に取り組む日本の製造業にとって、重要な示唆を与えてくれます。以下に要点を整理します。
1. 「作れること」と「儲かるように作れること」は別物であることの再認識
優れた技術を開発しても、それを安定した品質と妥当なコストで量産できなければ事業としては成り立ちません。製品開発の初期段階から、量産性を見据えた設計(DFM: Design for Manufacturability)を徹底し、生産技術部門が深く関与することが不可欠です。
2. 意図的な製品戦略の重要性
市場投入初期には、顧客の声に応えようとするあまり、製品の仕様が複雑化・多様化する「プロダクト・プロリファレーション(製品の無秩序な増殖)」に陥りがちです。経営層や事業責任者は、自社の生産能力やサプライチェーンの実力を冷静に見極め、時には「作らないもの」「やらないこと」を決める戦略的な判断を下す必要があります。
3. 標準化・モジュール化は競争力の源泉
製品の標準化とモジュール化は、QCDを高いレベルで両立させるための王道です。これにより、製造現場の負荷を軽減し、安定した生産体制を築くことができます。また、標準モジュールを組み合わせることで、ある程度のカスタマイズ要求にも効率的に応えることが可能になります。自社の製品群全体を見渡し、プラットフォームの共通化やモジュール設計を推進することは、継続的な改善活動として極めて重要です。


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