製造業の現場では、熟練技術者の高齢化と退職に伴う技能伝承が喫緊の経営課題となっています。本稿では、これまで個人の経験や勘に依存しがちだった暗黙知を、AI技術を用いていかに組織の資産として継承していくか、その具体的なアプローチと実務上の示唆を解説します。
迫りくる「経験の喪失」という危機
日本の製造業が長年培ってきた競争力の源泉は、現場の熟練技術者が持つ高度な技能やノウハウにありました。しかし、その担い手である団塊の世代をはじめとするベテラン層が次々と退職の時期を迎え、私たちは今、単なる労働力不足にはとどまらない、「経験の喪失」という深刻な危機に直面しています。長年の経験を通じて培われた、マニュアル化が困難な「暗黙知」――例えば、機械の微細な異音や振動から異常を察知する感覚、あるいは微妙な温度や湿度の変化に応じて製造条件を調整する判断力――が、個人の退職とともに失われつつあるのです。これは、生産性や品質の低下、さらには安全性の確保といった、工場運営の根幹を揺るがしかねない問題であると言えるでしょう。
AIは技能伝承の新たな担い手となりうるか
従来、技能伝承はOJT(On-the-Job Training)を中心に、師弟関係のような形で時間をかけて行われてきました。しかし、教える側・教わる側双方の時間が限られる現代において、この伝統的な手法だけでは追いつかないのが実情です。そこで注目されているのが、AI(人工知能)の活用です。AIは、熟練者の技能や判断を「データ」として捉え、それをモデル化することで、暗黙知を「形式知」へと転換する手助けとなります。例えば、各種センサーが収集した設備の稼働データと、熟練者が「正常」「異常」と判断した記録をAIに学習させることで、その判断基準をシステム上に再現することが可能になります。これは、熟練者の知見をデジタルデータとして保存し、組織全体で共有・活用する新たな道筋を示すものです。
AIを活用した技能伝承の具体的なアプローチ
AIを技能伝承に活用するアプローチは、すでに様々な形で実用化が進んでいます。以下に代表的な例を挙げます。
1. 予知保全と異常検知
熟練の保全担当者が「いつもと音が違う」「振動がわずかに大きい」といった五感で捉えていた設備の異常の兆候を、センサーデータとAIで検知します。これにより、若手の担当者でもベテランに近いレベルで故障の予兆を捉え、計画的なメンテナンスを実施できるようになります。
2. 製造プロセスの最適化
化学プラントや製鉄所などにおける複雑なプロセス制御において、熟練オペレーターが経験則で行っていたパラメータ調整。その操作ログや製品の品質データをAIが分析し、最適な運転条件を導き出します。これにより、オペレーターのスキルに依存しない、安定した高品質な生産が可能となります。
3. デジタルツインとARによる教育・作業支援
現実の設備や工場を仮想空間に再現する「デジタルツイン」上で、トラブルシューティングの訓練を行ったり、AR(拡張現実)グラスを通じて熟練者の作業手順を若手作業者の視野に直接表示したりすることも可能です。これにより、安全な環境で実践的なトレーニングを行えるだけでなく、遠隔地にいる専門家からのリアルタイムな指示も受けられるようになります。
技術導入における留意点
AIは強力なツールですが、万能の魔法ではありません。その導入と活用を成功させるには、いくつかの留意点があります。まず、AIの学習には質の高いデータが不可欠です。日々の操業データや保全記録をいかに正確に蓄積していくかが、AIの精度を左右します。また、AIはあくまで過去のデータからパターンを学ぶため、前例のない事象への対応は困難です。最終的な意思決定は人が行うという原則を忘れてはなりません。AIは熟練者を「置き換える」ものではなく、その知見を「拡張・継承」し、組織全体の能力を底上げするための支援ツールである、という視点が重要です。現場の抵抗感をなくし、協力を得ながら、特定の課題に絞ってスモールスタートで始めることが、着実な成果につながるでしょう。
日本の製造業への示唆
今回のテーマから、日本の製造業が今後取り組むべき要点と実務への示唆を以下に整理します。
1. 技能伝承を「個人の責務」から「組織の戦略課題」へ
熟練者の退職は避けられない現実です。個人の努力に頼るだけでなく、彼らの持つ貴重なノウハウをいかにして組織的な資産として残すか、経営レベルでの戦略策定と投資判断が求められます。
2. AIを「暗黙知の翻訳機」と捉える
AI技術は、言葉やマニュアルでは伝えきれない熟練者の感覚や判断を、データという共通言語に「翻訳」する可能性を秘めています。自社のどの工程の、誰の、どの技能をデータ化すべきか、具体的な検討を始めるべき時期に来ています。
3. 現場主導のスモールスタートを推奨
最初から全社的な大規模導入を目指すのではなく、まずは特定のラインや設備、具体的な課題(例:特定の不良の未然防止)に的を絞り、現場の技術者やリーダーが主体となって実証実験(PoC)を進めることが成功の鍵となります。
4. 人と技術の新たな協働関係を築く
AIが提示する分析結果や予測を、現場の状況と照らし合わせて的確に解釈し、次のアクションにつなげられる人材の育成が不可欠です。技術を使いこなすことで、人はより付加価値の高い判断や改善活動に集中できるようになります。


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