米インフレ抑制法(IRA)が動かすEVサプライチェーン – インド企業の米国工場計画、遅延の背景と次の一手

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インドの素材メーカー、イプシロン・アドバンスト・マテリアルズ社が米国で計画するEVバッテリー材料工場が、一時的な遅延を経て大きく前進しました。この動きの背景には、米国のインフレ抑制法(IRA)とその細則である「懸念される外国の事業体(FEOC)」規定があり、グローバルなサプライチェーン再編の現実を浮き彫りにしています。

インド企業の大型投資計画、一時停滞の理由

インドのEpsilon Advanced Materials社は2023年10月、米国ノースカロライナ州に6億5,000万ドルを投じ、EV用リチウムイオン電池の負極材である黒鉛を生産する大規模工場の建設計画を発表しました。この工場は、米国内でのEVバッテリーサプライチェーン強化の象徴的なプロジェクトとして注目されていましたが、その後、計画は一時的に停滞していました。

この遅延の背景にあったのが、米国の産業政策の根幹であるインフレ抑制法(IRA)の存在です。特に、EV購入時の税額控除の条件として定められた、バッテリー部品や重要鉱物の調達先に関する規定が、同社の最終的な投資判断に大きな影響を与えていました。

鍵を握る「懸念される外国の事業体(FEOC)」規定

IRAでは、税額控除の対象となるEVには、「懸念される外国の事業体(Foreign Entity of Concern: FEOC)」から調達したバッテリー部品や重要鉱物を使用できないと定められています。このFEOCには、中国、ロシア、イラン、北朝鮮の政府が所有・管理・指導下にある企業が含まれます。世界の黒鉛サプライチェーンにおいて中国が圧倒的なシェアを占める中、この規定はバッテリーメーカーや素材メーカーにとって極めて重要な意味を持ちます。

Epsilon社は、FEOCの具体的な定義や運用に関する米国政府のガイダンスが発表されるのを待っていました。自社がFEOCに該当しないことを明確に確認できなければ、顧客であるバッテリーメーカーにとって魅力的なサプライヤーにはなれず、巨額の投資がリスクに晒されるためです。これは、米国市場で事業を行う多くの企業が直面した共通の課題でした。

不確実性の解消とプロジェクトの再始動

2023年12月、米国エネルギー省と財務省は待望のFEOCに関するガイダンスを発表しました。これにより、どのような企業がFEOCに該当するかの基準が明確になりました。インド企業であるEpsilon社は、このガイダンスを精査した結果、自社がFEOCに該当しないとの確証を得ることができました。

この政策的な不確実性が解消されたことを受け、同社はプロジェクトを本格的に再始動。速やかに工場用地の購入を完了させるなど、具体的なアクションに移っています。政策の詳細が明らかになるまで慎重に状況を見極め、明確化された時点で迅速に意思決定を行うという、冷静な経営判断が見て取れます。

米国内サプライチェーンにおける独自の立ち位置

Epsilon社の計画は、単に黒鉛を生産するだけではありません。同社は、天然黒鉛と合成黒鉛の両方を米国内で一貫して手掛ける、米国で唯一の主要サプライヤーになることを目指しています。IRAによって国内調達の重要性が高まる中、米国のバッテリーメーカーにとって、FEOCに該当しない信頼できる国内サプライヤーの存在は不可欠です。

今回の事例は、IRAのような強力な産業政策が、企業の投資判断やサプライチェーン戦略をいかに根底から左右するかを如実に示しています。そして、地政学的な追い風を受けたインド企業などが、この新たな事業機会を捉え、米国市場で存在感を高めようとしている現状も示唆しています。

日本の製造業への示唆

今回のEpsilon社の事例は、日本の製造業、特に自動車や電池関連のサプライチェーンに携わる我々にとって、多くの実務的な示唆を含んでいます。

1. 政策動向の精緻なモニタリングの重要性
インフレ抑制法(IRA)やFEOC規定のような政策は、事業の前提条件を根本から変える力を持っています。法律の成立だけでなく、その後の細則やガイダンスの発表まで、内容を深く理解し、自社の事業やサプライチェーンへの影響を常に評価し続ける体制が不可欠です。専門部署だけでなく、経営層や現場リーダーも基本的な知識を持つ必要があります。

2. サプライチェーンの地政学リスク評価と再構築
「どこから調達するか」が、製品のコストや品質だけでなく、市場での販売資格そのものを左右する時代になりました。特に米国市場においては、「脱中国」を前提としたサプライチェーンの再構築が喫緊の課題です。自社のサプライヤーがFEOCに該当しないか、二次、三次のサプライヤーまで遡ってのリスク評価と、代替調達先の確保が求められます。

3. 新たな競争環境への適応
これまで競合として意識していなかった国の企業が、地政学的な優位性を武器に新たなプレイヤーとして登場しています。今回のインド企業のように、政策の追い風を捉えて機敏に動く企業との競争が始まっています。日本のものづくりの強みである品質や技術力に加え、こうした政策対応力やグローバルな事業環境の変化を捉える戦略的な視点が、これまで以上に重要になります。

4. 意思決定のタイミングとリスク管理
政策の不確実性が高い局面では、Epsilon社のように一旦立ち止まり、情報収集と分析に徹する慎重さが求められます。そして、進むべき道が明確になった際には、遅滞なく投資を実行に移すスピード感も必要です。リスクを見極め、適切なタイミングで大胆な意思決定を下す経営判断の重要性が増しています。

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