バイデン政権下で巨額の補助金が投じられ、米国内での工場建設が活発化しています。しかしその裏では、高騰するコスト、深刻な人材不足、そして脆弱なサプライチェーンという厳しい現実に直面しており、計画の遅延や見直しが相次いでいます。本稿では、米国の事例を基に、日本の製造業が国内投資を進める上で考慮すべき実務的な課題を解説します。
鳴り物入りで始まった米国の製造業回帰政策
近年、米国ではインフレ抑制法(IRA)やCHIPS法といった大規模な産業政策が打ち出され、半導体や電気自動車(EV)、バッテリーなどの分野で国内生産を促す動きが加速しています。これに応じ、多くの企業が米国内での大型工場建設計画を発表し、製造業の国内回帰(リショアリング)への期待が高まっていました。これは、経済安全保障の観点や、長年にわたる製造業の空洞化に対する危機感が背景にあります。
理想と現実のギャップ:なぜ計画は進まないのか
しかし、華々しい発表とは裏腹に、多くのプロジェクトが計画の遅延や規模の縮小、あるいは中止といった事態に直面しています。その背景には、経済の教科書通りにはいかない、いくつかの根深い課題が存在します。
第一に、建設・操業コストの急激な高騰です。建設資材の価格上昇に加え、建設作業員の人件費も高騰しており、当初の投資予算を大幅に超過するケースが少なくありません。これは、工場の建設段階だけでなく、操業開始後の人件費やエネルギーコストにも影響を及ぼし、事業の採算性を圧迫する要因となっています。日本国内で設備投資を計画する際にも、同様のリスクを慎重に見積もる必要があるでしょう。
第二に、深刻な労働力不足が挙げられます。特に、工場を稼働させるために不可欠な、高度なスキルを持つ技術者や経験豊富なオペレーターの確保が極めて困難になっています。長年にわたり製造業が国外へ流出した結果、国内の労働市場からものづくりを支える人材層が失われてしまったのです。最先端の工場を建設しても、「それを使いこなし、維持管理できる人材がいない」という問題は、日本の製造業にとっても決して他人事ではありません。
そして第三に、国内サプライチェーンの脆弱性です。一つの最終製品工場を稼働させるには、無数の部品や素材を供給する裾野の広いサプライヤー網が不可欠です。しかし、米国では多くの部品・素材産業が国外に移転してしまっており、国内で安定的に調達することが困難になっています。工場という「点」だけを国内に戻しても、それを支える「線」や「面」としてのサプライチェーンがなければ、効率的な生産は成り立ちません。これは、日本の製造業が誇る強固なサプライチェーン網の価値を、逆説的に示しているとも言えます。
経済合理性という根本的な問い
政府の補助金は、初期投資のハードルを下げる効果はあります。しかし、補助金がなくなった後も、高コスト構造の中でグローバルな競争力を維持できるのかという、経済合理性の問題は残ります。政策主導で最適化されたグローバル・サプライチェーンを再構築する試みは、経済的な非効率性を生む可能性を常にはらんでいます。持続可能な事業運営のためには、政策支援に過度に依存しない、自律的な競争力の確保が不可欠です。これは、補助金を活用した国内投資を検討する日本の経営層にとっても、重要な視点です。
日本の製造業への示唆
米国の製造業回帰の取り組みが直面している課題は、日本の製造業にとっても重要な教訓を含んでいます。国内での生産能力強化やサプライチェーン強靭化を検討する上で、以下の点を考慮することが肝要です。
1. コスト上昇リスクの精緻な評価:
国内での工場建設や設備投資を計画する際は、建設費や人件費、エネルギーコストなどの変動リスクを十分に織り込む必要があります。短期的な視点だけでなく、中長期的なコスト構造の変化を見据えた事業計画が求められます。
2. 人材育成と技術伝承の戦略的重要性:
設備投資と並行して、それを動かす人材の確保と育成に戦略的に取り組むことが不可欠です。特に、熟練技能の伝承や、デジタル技術に対応できる次世代の技術者育成は、企業の競争力を左右する重要な経営課題です。
3. サプライチェーン全体の強靭化:
自社の拠点だけでなく、国内のサプライヤー網全体の維持・強化にも目を向ける必要があります。国内の重要なサプライヤーとの連携を深め、サプライチェーン全体のレジリエンス(回復力・強靭性)を高める視点が、今後の安定的な生産活動の鍵を握ります。
米国の苦戦は、日本の製造業が持つ、厚みのあるサプライチェーンや質の高い現場人材といった強みを再認識する機会でもあります。これらの無形の資産をいかに維持し、発展させていくかが、今後の国際競争において極めて重要になるでしょう。


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