第二次世界大戦中のアメリカで、女性のファッションに欠かせなかった絹のストッキングが、突如として姿を消しました。この歴史的な出来事は、単なる服飾史のエピソードではなく、国家的な危機がサプライチェーンと生産体制に与える影響、そして代替生産への迅速な移行の重要性を示す貴重なケーススタディです。
はじめに:平時の常識が覆されるとき
サプライチェーンの寸断や原材料の供給不足は、現代の製造業が常に直面するリスクです。しかし、その規模と影響が国家全体に及んだとき、企業の生産活動は根本から変革を迫られます。今回は、1940年代のアメリカで起こった「ストッキング危機」を題材に、有事における資材管理と生産技術のあり方について考えてみたいと思います。これは、約80年前の出来事でありながら、現代の我々にとっても多くの教訓を含んでいます。
戦略物資と化した「絹」
1941年7月、アメリカ政府は生産管理局(Office of Production Management)を通じて、国内のすべての生糸を接収し、軍需目的以外での使用を禁止する指令を出しました。当時、女性用ストッキングの高級品は絹(シルク)で作られており、この決定はアパレル業界に激震をもたらしました。
なぜ絹が戦略物資とされたのでしょうか。絹は軽量で強度があり、落下傘(パラシュート)の傘布や、火薬を詰める火薬嚢の材料として不可欠だったためです。そして、その絹の供給の大部分を、当時の日本からの輸入に依存していました。日米関係の緊迫化は、単なる外交問題ではなく、軍の装備品に直結する原材料のサプライチェーン・リスクとして、明確に認識されていたのです。これは、現代における特定国への資源・部材依存のリスクと、その構造において何ら変わるところはありません。
期待の代替材料「ナイロン」も軍需へ
絹の代替として大きな期待を集めていたのが、デュポン社が開発したばかりの画期的な合成繊維、ナイロンでした。しかし、その期待も長くは続きませんでした。ナイロンもまた、その優れた強度と耐久性から、落下傘の傘布や吊り紐、軍用トラックのタイヤコード、テント、ロープなど、幅広い軍需品に転用されることになったのです。
この事実は、我々に重要な示唆を与えます。平時の事業継続計画(BCP)において、ある材料の代替品をリストアップしていたとしても、国家的な危機においては、その代替品自体がより高い優先順位の用途(この場合は軍需)に割り当てられ、入手不能になる可能性があるということです。リスクシナリオを検討する際には、こうした「二段構え」の供給途絶も想定しておく必要があります。
苦肉の策としての「綿」への回帰
絹もナイロンも使えない状況で、ストッキングメーカーが次に選択したのは、レーヨンや、より古くからある綿(コットン)でした。当然ながら、光沢や伸縮性、履き心地において、綿のストッキングは絹やナイロンに大きく劣ります。しかし、生産を継続し、市場の需要に応えるためには、他に選択肢はありませんでした。
興味深いのは、当時の女性たちが、この品質の劣る綿のストッキングを「愛国的な義務」の一環として受け入れたことです。戦時下という特殊な状況が、製品の性能や品質に対する消費者の評価軸そのものを変容させたのです。これは、現代において環境配慮やサステナビリティといった価値観が、消費者の購買決定に影響を与える現象と通じるものがあります。
生産現場の挑戦
原材料を絹やナイロンから綿へと切り替えることは、単に機械に投入する糸を変えれば済む話ではありません。それぞれの繊維は、太さ、強度、伸縮性、滑りなどの物理的特性が全く異なります。絹用に精密に調整された編機で、特性の違う綿糸を使って品質を維持しながら生産するには、現場の生産技術者やオペレーターによる大変な努力があったはずです。糸の張力調整、機械速度の最適化、品質管理基準の見直しなど、無数の試行錯誤が繰り返されたことでしょう。こうした予期せぬ仕様変更に迅速かつ柔軟に対応できる現場の技術力こそが、企業のレジリエンス(回復力・しなやかさ)の源泉となります。
日本の製造業への示唆
この戦時中のエピソードは、現代の日本の製造業に対して、以下の4つの重要な示唆を与えてくれます。
1. サプライチェーンの脆弱性の再認識: 特定の国や地域に原材料・部品の供給を依存することのリスクは、地政学的な緊張、パンデミック、自然災害など、様々な形でいつでも顕在化し得ます。供給元の多角化や、国内回帰を含めたサプライチェーン全体の再設計は、もはや単なるコスト削減の議論ではなく、事業継続のための最重要課題です。
2. 代替材料・代替プロセスの事前検討: 主要材料が使用不能になる事態を具体的に想定し、代替材料の技術評価や、それに伴う生産プロセスの変更シミュレーションを平時から行っておくことが重要です。机上のリストだけでなく、実際に試作や性能評価を行い、技術的な課題を事前に洗い出しておくことが、有事の際の対応速度を大きく左右します。
3. 生産現場の柔軟性と技術力: 予期せぬ材料変更や設計変更に迅速に対応できる現場力は、企業の競争力を支える基盤です。材料特性の変化を理解し、製造条件を最適化できる技術者の育成や、設計・開発部門と製造部門が密に連携できる体制の構築が、これまで以上に求められます。
4. 「デュアルユース」の視点: 自社が持つ技術や生産設備が、平時の民生品生産だけでなく、社会的な危機(自然災害、感染症、安全保障など)において、どのような貢献ができるかという「デュアルユース(軍民両用)」の視点を持つことも、今後の企業経営において重要になるかもしれません。これはリスク管理だけでなく、企業の社会的責任(CSR)を果たす上でも意義深い取り組みと言えるでしょう。


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