ドイツの巨大コングロマリット、シーメンスがAI時代に向けて「デジタル企業」へと大きく舵を切っています。本記事では、同社が推進するデジタルツインやオープンなプラットフォーム戦略を解き明かし、日本の製造業が学ぶべき点を考察します。
伝統的なコングロマリットから「デジタル企業」へ
1847年の創業以来、シーメンスはエネルギー、ヘルスケア、産業機器といった幅広い分野で事業を展開する、ドイツを代表するコングロマリットとして知られてきました。しかし近年、同社は大きな変革の只中にあります。CEOローランド・ブッシュ氏のリーダーシップの下、事業ポートフォリオを大胆に再編し、ソフトウェア、自動化、そしてデジタル化を事業の中核に据える「デジタル企業」への転換を加速させています。
この動きは、単なる新規事業の追加ではありません。自社の強みである産業機器(ハードウェア)と、最先端のソフトウェア技術を深く融合させることで、顧客の製品開発から生産、保守に至るまでのバリューチェーン全体に新たな付加価値を提供することを目指しています。これは、日本の製造業が長年得意としてきた「すり合わせ」の思想を、デジタルの世界で、より大規模かつ効率的に実現しようとする試みとも言えるでしょう。
中核を成す「デジタルツイン」と「産業用メタバース」
シーメンスの戦略の核心には「デジタルツイン」という概念があります。これは、現実の製品や生産設備、あるいは工場全体を、そっくりそのままデジタルの世界に再現する技術です。設計データだけでなく、稼働状況や物理的な特性、環境データなども含めて仮想空間上に「双子」を作ることで、様々なシミュレーションを可能にします。
例えば、新製品を開発する際には、物理的な試作品を作る前にデジタルツイン上で性能評価や耐久試験を繰り返し行うことができます。また、新しい生産ラインを導入する際には、事前にレイアウトや作業員の動線、設備の稼働率などをシミュレーションし、ボトルネックを解消した上で実機を設置することが可能です。これにより、開発期間の短縮、コスト削減、そして品質の向上が期待できます。
さらにシーメンスは、NVIDIA社との協業により、このデジタルツインをリアルタイムかつフォトリアルな「産業用メタバース」へと進化させようとしています。これにより、世界中の技術者が同じ仮想空間に集まって共同で設計作業を行ったり、現場作業員が現実の工場に赴く前にリアルな環境でトレーニングを受けたりといった、新たな働き方が現実のものとなりつつあります。
オープンなプラットフォーム戦略「Siemens Xcelerator」
こうした先進的なソリューションを展開する上で、シーメンスが重視しているのが「オープン」であることです。自社の技術だけで顧客を囲い込むのではなく、「Siemens Xcelerator」というオープンなデジタルビジネスプラットフォームを提供しています。
このプラットフォームは、シーメンス自身のソフトウェアやハードウェアだけでなく、AWSやMicrosoftといったパートナー企業のサービスも組み合わせて利用できる、柔軟で拡張性の高いエコシステムとなっています。顧客企業は、自社の課題に合わせて必要なツールやサービスを自由に選択し、連携させることが可能です。日本の製造業においても、特定ベンダーへの依存(ベンダーロックイン)を懸念する声は少なくありません。こうしたオープンなアプローチは、デジタル技術導入の心理的なハードルを下げる上で有効と考えられます。
AIがもたらす具体的な成果
シーメンスのデジタル戦略は、AIの活用によってさらにその価値を高めています。例えば、F1チームのレッドブル・レーシングは、シーメンスのソフトウェアを活用してマシンの空力設計を最適化し、風洞実験の回数を大幅に削減しながらも高い競争力を維持しています。
これは特殊な事例に限りません。製造現場においては、センサーデータとAIを組み合わせて設備の故障を予知する「予知保全」、画像認識AIによる製品の自動外観検査、あるいは工場全体のエネルギー消費をAIが最適化するといった、より身近な形での応用が進んでいます。デジタルツインという器の中でAIがシミュレーションと最適化を繰り返すことで、人間だけでは到達し得なかった高効率な生産プロセスが実現されつつあるのです。
日本の製造業への示唆
シーメンスの一連の取り組みは、日本の製造業にとっても多くの示唆に富んでいます。以下に主要な点を整理します。
1. ハードウェアとソフトウェアの真の融合
日本の製造業の強みは、高品質なハードウェア(製品・設備)にあります。その価値を最大化するために、ソフトウェアやデータをいかに活用するかが今後の競争力を左右します。シーメンスの事例は、ハードウェアを「データを生み出す器」と捉え、ソフトウェアによって新たな価値を付加するモデルの重要性を示しています。
2. デジタルツインの段階的な導入
工場全体の包括的なデジタルツインを一度に構築するのは、コストや人材の面で現実的ではありません。まずは特定の製品の設計シミュレーションや、一本の生産ラインの稼働状況の可視化など、課題が明確な領域からスモールスタートで始めることが肝要です。小さな成功体験を積み重ね、適用範囲を徐々に拡大していくアプローチが求められます。
3. オープンな発想とパートナーシップ
かつての自前主義に固執せず、外部の優れた技術やプラットフォームを積極的に活用する姿勢が重要です。業界の垣根を越えたパートナーとの連携によって、自社だけでは生み出せなかった新しいソリューションやビジネスモデルが生まれる可能性があります。
4. 人材育成と組織文化の変革
最も重要なのは、これらのデジタル技術を使いこなす人材の育成です。特定の専門家だけでなく、設計、生産技術、品質管理、保全といった各部門の担当者がデータ活用のリテラシーを身につける必要があります。また、トップダウンの指示だけでなく、現場からのボトムアップでの改善提案や試行錯誤を許容する、柔軟でアジャイルな組織文化への変革が不可欠と言えるでしょう。


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